たとえそこに石碑しかなくても

京都周辺で訪れた史跡を記録がてら綴ります。たとえそこに石碑しかなくても、往時に思いを馳せます。

お正月スペシャル(後編)

昨日に続きまして、お正月に巡った史跡について綴ろうと思います。

 

晴明神社の次に向かったのは、すこし離れたところにある会津藩洋学所跡地。新島八重の実兄として有名な(私は大河ドラマ「八重の桜」で知りました)山本覚馬が開設したものだそうです。洋学所は長徳寺内にあったそうで、現在は寺の門の横に碑が設置してあります。山本覚馬は、初代京都府議会議長に就任するなど、京都との関わりは深かったようです。

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会津藩洋学所跡地

 

さて、次に向かったのは、薩摩藩邸跡。もろに同志社大学の敷地にあたります。

説明版によると、この藩邸が建てられたのは文久二年(1962年)と、京都が幕末の混乱期に突入してからだったそうで、意外と新しい(?)という感じがしました。位置的に言えば、御所のすぐ北にあり、幕末の京都での薩摩藩の政治活動の重要な拠点になっていたことが想像できます。

ちなみに、前述の山本覚馬ですが、大政奉還後に捕らえられ、この藩邸に幽閉されていたそうです。その時にまとめた建白書「管見」が京都の近代化に影響を与えたと言われています。

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薩摩藩邸跡

 

そして、そのまま烏丸通を北へ向かい、小松帯刀寓居跡へ。ここは近衛家別邸〈御花畑御屋敷〉が営まれ、幕末には島津家が使用していたそうです。

 

ここは、先ほどの薩摩藩邸とともに薩長同盟締結の最有力候補地になっています(この碑の裏側に「薩長同盟所縁之地」の字があります)。何年か前は別の地が小松帯刀邸として特定されていたようですが、近年の資料の発見により2016年にこちらに碑が新たに建てられたとの説明書きがありました。こんなに最近になってもまだ新しい発見があるものなんですね。今まだ明らかになっていないことでも、これから資料が発見されたりするのかも。

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小松帯刀寓居跡(薩長同盟所縁の地)

慶応三年(1867年)の夏には、西郷隆盛大久保利通たちがここから五山の送り火を見たという記録が残っているそうで、その様子を想像するとなんだか微笑ましい感じがします。今も続いている送り火を、幕末の人たちも見ていたと思うと、少しだけその時代が身近に感じられるというものです。

 

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藤井右門宅跡

さて、最後にちょっとおまけです。薩摩藩邸跡から小松帯刀寓居跡に行く途中にたまたま見つけた、藤井右門宅跡。江戸時代中期の尊王論者ということで、実は初めて名前を聞きました。「明和事件」で処刑されてしまったとの説明を見て、「明和事件」はそういえば聞き覚えがあるような…。またこの方についても調べてみたいと思います。

 

しかし、ぶらぶら歩いていたら新たな発見がある、やっぱり京都は面白いなあと思った瞬間でした。

 

前編・後編にわたったお正月スペシャル、これにて終了です。