蘆山寺~梨木神社
本当に久しぶりの、京都の史跡探訪記事です。
今回は蘆山寺と梨木神社について書きたいと思います。
蘆山寺はもとは別の場所にありましたが、1573年に現在の地に移転しました。その移転した先がかの有名な紫式部邸宅跡ということで、現在は源氏物語執筆の地として有名になっています。
現在の本堂は、宝永五年(1708)と天明八年(1788)に相次いで焼失した後、寛政六年(1794)に光格天皇が仙洞御所の一部を移築し、女院、閑院宮家の御下賜で改装されたものだそうです。
私が訪れた時も、光格天皇所縁の品が展示されていました。
光格天皇は、ちょうど幕末の騒乱期に皇位についていた孝明天皇の2代前の天皇(そして祖父)になります。
光格天皇は閑院宮典仁親王の第六皇子として誕生し、始めは出家して聖護院門跡を継ぐことを期待されていました。
しかし、安永八年(1779)に後桃園天皇が皇子がいない状態で崩御したため、急遽即位することになったのです。
光格天皇は閑院宮という、いわゆる傍系の出身であったためか、朝廷の儀式の復旧などに熱心に取り組んだといいます。天明の大飢饉のときには、「御所千度参り」をする民衆の様子を見て、幕府に救済措置を申し入れるという異例の行動を起こしました。
そして、光格天皇に関する一番有名な出来事と言えば「尊号事件」でしょう。この事件は、光格天皇の実父である閑院宮典仁親王に太上天皇の尊号を送ろうとしたところ、幕府が反対をしたというものです。
これによって朝幕関係は悪化したともいわれますが、幕府側は天皇の叔父の関白鷹司輔平に書簡を送ったり、典仁親王に千石加増を認めたりと、朝廷側に色々と配慮をしていたようです。
典仁親王には、明治十七年に慶光天皇の諡号と、太上天皇の尊号が贈られました。
天皇陵は、蘆山寺の奥にあります。
光格天皇のこれらの活動(朝廷儀式の復活、幕府に対する政治的要求)もあってか、この時期には、尊王論が大きな高まりを見せました。
これがきっと幕末の尊王攘夷思想につながっていったのだろうな…と思うと、幕末好きの私としては大変興味深い話でした。
さて、蘆山寺の近くにある梨木神社。ここは、三条実万、実美親子が祀られている神社です。
三条実万は、先ほど登場した光格天皇、そして仁孝天皇、孝明天皇に仕えましたが、安政の大獄で弾圧され、一条寺村での謹慎中に亡くなりました。
三条実美は、攘夷派の公卿として活躍し、八月十八日の政変で一度は朝廷を追われましたが、明治政府では右大臣・太政大臣・内大臣等を歴任しました。
下に梨木神社の鳥居を載せましたが、なぜかこの鳥居と境内の間に建物が挟まっております…。(この建物の向こうにも、鳥居はありますが。)
そして、境内には京都三名水(醒ヶ井、県井、染井)のうちの唯一現存する染井が湧いています。染井を使った水みくじ(水に浮かべると文字が浮かんでくるおみくじ)も売っていましたが、今回は買わず。
今回は蘆山寺と梨木神社について書きました。
有名だけど行ったことないなーという2ヶ所でしたが、思いがけず私の好きな幕末につながる話を知ることが出来たので、とても面白かったです。
それでは、また逢う日まで~~~。