たとえそこに石碑しかなくても

京都周辺で訪れた史跡を記録がてら綴ります。たとえそこに石碑しかなくても、往時に思いを馳せます。

蘆山寺~梨木神社

本当に久しぶりの、京都の史跡探訪記事です。

 

今回は蘆山寺と梨木神社について書きたいと思います。

京都御所の東側、寺町通り沿いを下っていくと辿り着きます。

 

f:id:fuchur:20220211173833j:plain

蘆山寺入り口

 

蘆山寺はもとは別の場所にありましたが、1573年に現在の地に移転しました。その移転した先がかの有名な紫式部邸宅跡ということで、現在は源氏物語執筆の地として有名になっています。

 

現在の本堂は、宝永五年(1708)と天明八年(1788)に相次いで焼失した後、寛政六年(1794)に光格天皇が仙洞御所の一部を移築し、女院閑院宮家の御下賜で改装されたものだそうです。

 

私が訪れた時も、光格天皇所縁の品が展示されていました。

 

光格天皇は、ちょうど幕末の騒乱期に皇位についていた孝明天皇の2代前の天皇(そして祖父)になります。

 

光格天皇閑院宮典仁親王の第六皇子として誕生し、始めは出家して聖護院門跡を継ぐことを期待されていました。

しかし、安永八年(1779)に後桃園天皇が皇子がいない状態で崩御したため、急遽即位することになったのです。

 

光格天皇閑院宮という、いわゆる傍系の出身であったためか、朝廷の儀式の復旧などに熱心に取り組んだといいます。天明の大飢饉のときには、「御所千度参り」をする民衆の様子を見て、幕府に救済措置を申し入れるという異例の行動を起こしました。

 

そして、光格天皇に関する一番有名な出来事と言えば「尊号事件」でしょう。この事件は、光格天皇の実父である閑院宮典仁親王太上天皇の尊号を送ろうとしたところ、幕府が反対をしたというものです。

 

これによって朝幕関係は悪化したともいわれますが、幕府側は天皇の叔父の関白鷹司輔平に書簡を送ったり、典仁親王に千石加増を認めたりと、朝廷側に色々と配慮をしていたようです。

 

典仁親王には、明治十七年に慶光天皇諡号と、太上天皇の尊号が贈られました。

天皇陵は、蘆山寺の奥にあります。

 

 

 

f:id:fuchur:20220211173749j:plain

慶光天皇

光格天皇のこれらの活動(朝廷儀式の復活、幕府に対する政治的要求)もあってか、この時期には、尊王論が大きな高まりを見せました。

これがきっと幕末の尊王攘夷思想につながっていったのだろうな…と思うと、幕末好きの私としては大変興味深い話でした。

 

さて、蘆山寺の近くにある梨木神社。ここは、三条実万、実美親子が祀られている神社です。

 

三条実万は、先ほど登場した光格天皇、そして仁孝天皇孝明天皇に仕えましたが、安政の大獄で弾圧され、一条寺村での謹慎中に亡くなりました。

三条実美は、攘夷派の公卿として活躍し、八月十八日の政変で一度は朝廷を追われましたが、明治政府では右大臣・太政大臣内大臣等を歴任しました。

 

下に梨木神社の鳥居を載せましたが、なぜかこの鳥居と境内の間に建物が挟まっております…。(この建物の向こうにも、鳥居はありますが。)

 

f:id:fuchur:20220211173710j:plain

梨木神社の鳥居

そして、境内には京都三名水(醒ヶ井、県井、染井)のうちの唯一現存する染井が湧いています。染井を使った水みくじ(水に浮かべると文字が浮かんでくるおみくじ)も売っていましたが、今回は買わず。

f:id:fuchur:20220211183430j:plain

染井

今回は蘆山寺と梨木神社について書きました。

有名だけど行ったことないなーという2ヶ所でしたが、思いがけず私の好きな幕末につながる話を知ることが出来たので、とても面白かったです。

 

それでは、また逢う日まで~~~。

 

今年も終わりそうなので、今年の大河ドラマについて書こう

今年ももう終わってしまいますねぇ。

あまりブログの更新が出来なかったので、史跡巡りではないですが、記事を書こうと思います。

 

今年の大河ドラマ「青天を衝け」がとてもとても印象に残るものだったので、それについて書こうと思うのです。

あくまで私の個人的意見であって、しかも栄一がパリから帰国したあたりからしか見ていないので、偏りもあるかと思いますが、承知して読んでいただければと思います。

 

私的に、「青天を衝け」は3つの点で画期的だったと思うのです。

 

1つ目は、(旧)幕府側の人物が多く取り上げられたこと。

昨年あたりから、大河ドラマとは関係なしに、小栗上野介明治維新幕臣に関する本を読んでいました。そういう理由で、個人的に旧幕臣への評価が高まっていた時期に、この大河ドラマはタイムリーでした。明治維新からこれだけ時間が経って、幕臣の活躍がこれだけ強調される(ドラマ中でも意識して台詞の中に取り入れられていたように感じました)ということに、歴史観の変化の兆しを感じました。

そして、今まで繰り返し描かれてきた幕末・明治の時代も、登場人物が違うことで話の内容もかなり目新しいものが多かった。そこもおもしろさの一つだったと思います。

 

 

2つ目は、幕末期から明治・大正・昭和初期までが一つの作品の中で連続性を持って描かれたこと。

幕末期を扱った作品の多くは、主人公の死に伴って明治初期、長くても明治10年代くらいで終わっていると思うのです。それが、渋沢栄一は明治の時代でもバリバリ活躍し、大正を潜り抜け、満州事変が起こった時まで生きている。

幕末・明治と日清戦争日露戦争などが別の作品で描かれていると、無意識のうちにこの2つは違う時代なんだと思ってしまっていました。しかし、「青天を衝け」を見ていると、外国に負けじと必死で国を作って来た明治時代の結果として大正・昭和の時代があったのだということを強く思ったのです(こうやって文字にすると何を当たり前のことを…と思うかもしれないですが、本当に私の実感としてはこうだったんです)。

 

3つ目は、徳川慶喜の晩年が描かれたこと。

これもほぼ初めてではないだろうか(いや私の見聞は狭いので嘘かもしれない)。

幕末好きを自称しているので、慶喜明治維新後長生きして趣味に生きていたということは知っていました。そして、ドラマ中の栄一と同じく、戊辰戦争での行動をどう捉えてよいか分からず、慶喜は何を思って生きていたのだろうと思っている私もいました。そういう状態でずっとドラマを見ていて、最終回前での「生きていてよかった」を聞いた時は、思わず涙がこみ上げてきてしまいましたよ。(もちろん本当はどう思っていたかは分かりませんが)「そうか、生きていてよかったのかぁ」と。

これ、渋沢栄一が主人公だからこそ出来たことだなあとも思います。慶喜本人が主人公では流石に後半生はドラマとして成立しないし、深い交流を保ち続けたのも栄一くらいではないでしょうか。そういう意味では、今回が最初で最後…?

 

色々書きましたが、まとめて言うと、「青天を衝け」、吉沢亮がもう渋沢栄一にしか見えない、草彅剛がもう徳川慶喜にしか見えない、くらい面白かったです。

 

いつか前半もちゃんと見てから感想・完全版を書けると良いのですが。乞うご期待。

 

 

 

 

清和天皇陵

お久しぶりでございます。

この半年ほど忙しさにかまけて、すっかりブログの更新が滞ってしまいました。

インスタの方は頑張ってちょこちょこ写真をあげていたものの、まとまって文章を書く気力というのはなかなか起きないものですね…。

 

さて、今回はちょっと頑張って出掛けた場所があるので紹介します。

清和天皇陵です。

 

天皇陵の中でも屈指の行きにくさを誇るのではないかという清和天皇陵ですね。

私は、JR保津峡駅まで電車で行き、水尾自治会の運行するバスに乗って水尾まで行きました。

f:id:fuchur:20210905195132j:plain

保津峡

電車を降りたら、いきなり綺麗な保津峡が目の前に。川下りなども有名ですが、今回はパスです。

 

水尾でバスを降りたら、所々にある標識を頼りに清和天皇陵へ。水尾は柚子が有名なのですが、途中で柚子畑の横を通っていきます。たどり着くまでは20分くらい、ちょっとした山登りです。

f:id:fuchur:20210905195754j:plain

清和天皇陵への入り口

f:id:fuchur:20210905195707j:plain

清和天皇

第五十六代清和天皇は、文徳天皇藤原良房の娘明子の間に生まれ、文徳天皇崩御に伴い858年に九歳で即位しました。その後、二十七歳で突如退位し、余生を仏道修行に捧げました。この修行の途中で水尾に立ち寄った際にこの地をとても気に入り、終焉の地と定めたそうです。

 

清和天皇は三十一歳で亡くなってしまい、遺言によってこの地に埋葬されました。

現代でさえとても静かで景色の良い所なので、清和天皇の時代にはもっと美しい場所だったのではないかと想像されます。

 

天皇陵から戻り、少し離れたところには、清和天皇社もあります。毎年5月3日には清和天皇例大祭が行われるそうです。

 

f:id:fuchur:20210905201557j:plain

清和天皇

この後、帰りのバスが来るまでに時間があったので、もう歩いて帰ってしまえ!と思い、保津峡駅までの約4 kmをてくてく歩きました。帰る途中もずっと綺麗な川沿いを歩いていたので、体力のある方は歩いても楽しいかもしれませんね。実際、ランニングやサイクリングをしている方と結構すれ違いました。

 

さて、今回は以上になります。

いくつかネタのストックはあるので、次回の更新も早めにできるといいナ…。

奈良の天皇陵を巡る旅

先日、奈良の方に出張して、橿原神宮・飛鳥周辺の天皇陵を巡って来たので、その時の記録をまとめたいと思います。

 

京都からは、京阪丹波橋駅近鉄に乗り換え、橿原神宮前行きの電車に乗って行きます。1時間45分くらいかかりました(^^;

本来の予定では、橿原神宮前駅でレンタサイクルして回ろうと思っていたのですが、なんと駅前の店が3店舗ともお休みでした。。。(コロナの関係で平日は休業というところも多いようです)

そこで、吉野行きの電車に乗り、2駅隣の飛鳥駅へ。流石に飛鳥駅前のお店は営業しており、無事に自転車を借りることが出来ました。

 

まずは、飛鳥駅から橿原神宮へ。橿原神宮は、第一代天皇である神武天皇と皇后を祀っており、明治時代に入って創建されたそうです。

f:id:fuchur:20210328152634j:plain

橿原神宮鳥居

境内には大きな池があって、鴨がたくさん泳いでいました。京都だとあんまりこういうところ見ないなーと思ってとても感動していました。

f:id:fuchur:20210328153113j:plain

深田池

さて、ここからは天皇陵巡りです。なんと、第一代から第四代までは順番に回れます。

まずは、第一代神武天皇陵。写真のように、かなり敷地は広かったです。ちなみに、こちらに畝傍陵墓監区事務所があり、奈良周辺の天皇陵の御陵印を頂くことができます。私ももらってきました!

f:id:fuchur:20210328154929j:plain

神武天皇

次は、第二代綏靖(すいぜい)天皇陵。

f:id:fuchur:20210328155317j:plain

綏靖天皇

第三代安寧天皇陵。

f:id:fuchur:20210328155415j:plain

安寧天皇

第四代懿徳(いとく)天皇陵。

f:id:fuchur:20210328155526j:plain

懿徳天皇

2時間ほどかけてこれらの天皇陵を回りました。

ここからもう少し南に移動してさらに天皇陵を回ったので、その記録はまた後日書きたいと思います。

 

仁明天皇陵・深草北陵

なんだか久しぶりの更新になってしまいました。

 

今回は、仁明天皇陵と深草北陵。

京阪本線藤森駅を降りて東に向かいます。

 

まずは仁明天皇陵。 

f:id:fuchur:20210303175626j:plain

仁明天皇

仁明天皇の時代に起きたことで最も大きかったのは、承和の変でしょう。

仁明天皇嵯峨天皇の子ですが、天皇の継承順は嵯峨天皇淳和天皇嵯峨天皇の弟)→仁明天皇となっています。そして、当初は皇太子に淳和天皇の子である恒貞親王が立てられていました。

しかし、淳和天皇嵯峨天皇崩御した後、伴健岑橘逸勢恒貞親王を擁して謀反を起こそうとしているとされ、恒貞親王は皇太子を廃せられ、伴健岑橘逸勢流罪となりました。

恒貞親王の後に皇太子となったのは、仁明天皇藤原良房の妹・順子との間の子、道康親王でした。この事件は藤原良房の陰謀とも言われ、この後藤原北家の力が強くなっていきます。

 

f:id:fuchur:20210303181534j:plain

深草北陵

次は、深草北陵。ここには、後深草天皇伏見天皇後伏見天皇後光厳天皇後円融天皇後小松天皇称光天皇後土御門天皇後柏原天皇後奈良天皇正親町天皇後陽成天皇の十二人の天皇が合葬されています。

 

ちょっと珍しく、塀がめぐらされ、向こうにはお堂が見えます。

向かいには駐車場があったので、ここにはたくさんの人が参拝に来るのだろうか…と思いました。

 

仁明天皇の説明に力を入れてしまったので、深草北陵のそれぞれの天皇についてはまた余力があれば説明したいと思います…。

 

 

インスタグラム、始めました。

突然ですが、タイトルの通り、インスタグラムを始めることにしました。

 

インスタやったことないので、どんなもんかなという感じですが、よかったら見てください。とりあえず写真だけあげて、後からこちらで記事にまとめようという作戦です。

f:id:fuchur:20210206185757p:plain

それから、インスタを始めるにあたって、ブログ名も変えることにしました。今まではとりあえずと思って適当に付けた名前でやっていましたが、もうちょっとオリジナリティを出そうと思って3日くらい考えました(考えた結果、プロフィール文からとってきた)。

 

たとえそこに石碑しかなくても、歴史に関係ある場所だったら行ってみようという気持ちです。

木屋町藩邸特集

御池~四条にかけての木屋町通には、多くの藩邸がありました。

今日はそれらを特集したいと思います。

 

そもそも私が京都の街中にある石碑を訪ねて回るようになったきっかけが、「なんか木屋町通に藩邸跡の石碑がいくつもあるな、全部調べてみたい」と思ったからなのです。たくさんあると調べつくして整理したくなる癖があります。

 

まずは長州藩邸跡から。御池通りに面したホテルオークラの南側の入り口に、石碑が立っています。

f:id:fuchur:20210127173102j:plain

長州藩邸跡

 

ちなみに、西側に回り込むと桂小五郎像があります。桂小五郎は京で藩外交を担っていたというので、京都とのつながりも深かったのでしょう。

f:id:fuchur:20210127173229j:plain

桂小五郎

さて、御池通りを渡るとすぐに見つかるのが加賀藩邸跡(石碑は茂みに隠れていたので看板の写真を載せておきます)。幕末の加賀藩というのはあまり目立った動きをしていないので、私もあまり詳しくはないです…。

f:id:fuchur:20210127190049j:plain

加賀藩邸跡

木屋町をしばらく南へ行くと、三条の一本手前の姉小路通に、対馬宗氏の屋敷跡があります。宗氏と言えば朝鮮と通交していた大名であり、対朝鮮貿易の集荷に便利なため高瀬川のすぐそばに屋敷があるようです。

この石碑には、桂小五郎寓居跡の字も見られます。これは、桂小五郎対馬藩の大島友之允と親しかったため、対馬屋敷を居所の一つとしていたからだそうです。池田屋事件の折、時間よりも早く池田屋に行ったがまだ誰も来ていなかったために一度対馬屋敷に戻っていた、または、新選組に襲撃された時屋根を伝って対馬屋敷に逃れたという話は有名かと思います。

f:id:fuchur:20210127225228j:plain

対馬宗氏屋敷跡

更に木屋町を下り、六角通に差し掛かると彦根藩邸跡があります。ここは石碑のみ。

f:id:fuchur:20210129140919j:plain

彦根藩邸跡

さて、これで最後になります。三条通からさらに南に下っていき、蛸薬師通の入り口にあるのが土佐藩邸跡。

f:id:fuchur:20210129135442j:plain

土佐藩邸跡

この近くには土佐稲荷という神社が残っているのですが、なんと当時は藩邸の中にあったそうです。土佐藩ゆかりの神社ということで、坂本龍馬の像もあります。

f:id:fuchur:20210129144734j:plain

土佐稲荷内の坂本龍馬

ちなみにですが、京大の吉田キャンパスあたりには第二の土佐藩邸があり、陸援隊の屯所になっていたそうです(石碑などは特にないです)。

 

今回は藩邸跡のみを取り上げましたが、やはり藩邸周辺にはその藩の人の住んでいたところが多くあるもので、そちらもまた今度特集できたら良いなと思っています。